―奥正之さんに続いてご登場いただき、ありがとうございます。
まずは、ハンドボールとの出会いからお聞かせください。
中学校(早稲田実業)の3年間は受験勉強一色でした。高校(東京教育大駒場、現・筑波大駒場)に入ったらスポーツを、できれば上半身の強さを活かせるスポーツをと考え、たどり着いたのが中学の授業でもやっていたハンドボールでした。
ハンドボールはいざやってみると、おもしろい。
高校では目に見えた結果を残すことはできませんでしたが、大学でも絶対に体育会に入ってやってやろうと思っていました。
―その思いを実行に移されたわけですね。
はい。東大に現役合格し、入学式翌日、自ら進んでハンドボール部に入部。そのまま練習に参加しました。ボール運びからのスタートで、入学直後の関東学生春季リーグ戦では3部から4部に降格。
京大との定期戦(毎年6月)にも負け、夏の七帝戦(全国七大学総合体育大会、東大、京大、北大、東北大、名大、阪大、九大による体育大会)でも全敗でした。
七帝戦の際、休憩時間に水を飲んでいたところ、九大の学生から「水なんか飲んでるから負けるんだ」と言われたことから「絶対負けない!!」と奮い立ち、九大との1年生同士の試合には勝ちました。
チームの勝利といえば、この試合くらい。入学当初の負け続けた経験が、ハンドボールを本気でやるきっかけになりました。
京大の上級生にかわいがってもらったこともあり、京大が目標、「京大をやっつける!!」という思いも強かったですね。
練習や上下関係も厳しかったですが、チーム強化に関係ない厳しさはなく、合理的な厳しさでした。まだまだ合理的にできる、と感じたこともたくさんありました。
―確か東大ではキャプテンも務められましたよね。
強くなりたい、勝ちたい、という思いから、絶対にキャプテンになりたいとも思っていました。その思いどおり、3年の夏からキャプテンになりました。
キャプテン就任に際し、「適当にやって楽しむか、苦しくても勝つチームにするか」をチームメイトに問い、みんなが後者を選択してのスタートでした。
それまで週4日だった練習を週6日に。土、日に藤森徹さん(京大OB、現・日本協会参与)にコーチに来ていただいたこともあり、土日も練習で休みは月曜のみ。自分たちの中だけで考えていても成長できないと、進んで外に出ていきました。
―どのような相手と腕を磨いたのでしょうか?
順天堂大学との合同合宿や、実戦を増やそうと関西遠征にも出かけました。藤森さんの紹介で中村荷役(かつて日本リーグに所属)が大田区体育館で行っている練習に参加させてもらったこともありました。当時の中村荷役には現役選手だった西窪勝広さん(現・オムロンGM)もいらっしゃいましたね。
日本代表のコーチを務められていた渡辺慶寿さんの紹介で、女子の日立栃木(かつて日本リーグに所属)に出向いたこともありました。女子選手の未来永劫動き回れるかのような持久力には舌を巻いたものです。
―日々の生活の様子や練習の成果はいかがだったでしょうか?
日々の学生生活もハンドボール中心。3年生からは授業は本郷、練習は駒場と活動場所が分かれていたのですが、持っていた通学定期は自宅と駒場との間のものだけ、という状態でした。キャプテンとなって最初の関東秋季リーグ戦は、3部優勝を果たし、2部との入れ替え戦でも青山学院大を破って2部昇格。当時、3部以下はグランドで、体育館で試合ができるのは2部より上、という時代でしたから、2部は憧れの場でした。4年生の夏には、1年生の時に全敗だった七帝戦で優勝。
ハンドボールに打ち込み過ぎたこともあり、もう1年、学生生活を送ることになりましたが、キャプテンの座を後輩に譲った後も、5年目の関東春季リーグ戦に出場しました。2部2位となり、法政大との入れ替え戦へ。前半は8-12とリードされたものの、僕は後半、追いつき、逆転できる確信がありました。けれども、後半、諦めの気持ちを抱いた後輩もいて、20-29で敗れました。「自分がキャプテンだったならば」と、今も悔しさがよみがえります。戻れるならば、もう一度、キャプテンとしてチームの先頭に立ちたいですね。
1部リーグ昇格こそ果たせませんでしたが、1年生の秋、4部のコートに立ってから、1部との入れ替え戦まで階段を上がることができ、本当に楽しい時代でした。中村荷役が身近だったこともあり、実業団でのプレーも考えたほどです。
―とても充実した学生生活だったようですね。練習はつらくありませんでしたか?
楽しさ、充実感に満たされるとともに、苦しさも味わいました。3年生でキャプテンになった最初の夏合宿のこと。日本代表のコーチも務めていた渡辺慶寿さんがアレンジしてくれた合宿は、メニューも代表とほとんど同じ。炎天下でゴム縄を越えていくようなトレーニングが延々と繰り返されました。キャプテンとして先頭に立ち、「ついてこい」と引っ張るものの、1セット終わると、「ダメだ…」「もう1歩も動けない…」という思いに包まれます。
それでも、渡辺先生がピッと笛を吹くと、身体が無意識に動いている。あの苦しさを思えば、何でもできる、という強い気持ちも培うことができました。
―大学時代に培った強い気持ちは、社会人になられてからどのように活きてきたのでしょうか?
東大ハンドボール部での活動にピリオドを打った後、猛勉強して国家公務員試験を突破し、通商産業省(現・経済産業省)への入省が内定しました。通商産業省には、夜中の3時、4時まで働かなければいけないと噂され、誰もが行きたがらない部署がありました。入省予定の同期を見渡したところ、体育会のキャプテン出身者は僕1人。
そうした経歴から、おそらく僕が一番忙しいポストに投入されるだろう、投入されるなら、自ら希望してやろう、合宿の練習を超えるつらさはないだろうと、自分で「一番、忙しいところへ入れてください。絶対、へこたれませんから」と志願してしまいました(笑)。入省後の配属先は、本当に希望どおり。それ以外、人事調書には毎年、常に「困難な仕事」と書くようになりました。
衆議院議員となり、2012年、自由民主党が政権を取り戻した時も、同じように書きました。そうしたら、翌年に命ぜられたのが農林部会長です。TPP(環太平洋パートナーシップ)や農協改革など、本当に困難な仕事に直面する役職でした。困難な仕事での実績を認められ、農林副大臣、そしてこの夏から農林大臣に。
ハンドボールで培った「どこでも来い」の気持ちで、現在まで突き進み続けています。
―ハンドボールがしっかりと今につながっていますね。
途中から、思ってもないポストに配属された時のほうが、新しい知識や人脈を得られ、自分のためになる。狭い経験の中よりも、全然違うことをいっぱい経験するほうが、と思うようになりましたね。もとをただせば、すべてハンドボールに行き着きます。ハンドボールのおかげですね。
キャプテン時代は、自分たちより少し弱いチームと対戦する時こそ、気を引き締め直したものでした。強いチームと対戦する時は、みんな緊張しているから問題ありませんが、少し弱いチームと対戦する時は気が抜けるもので、しかも相手は必死ですから、その時の方が問題です。
仕事でも同じこと。こんなもの、うまくいくだろう、と思える仕事ほど、集中してやろうと自身を戒めてきました。
―ハンドボールの魅力はどんなところでしょうか?
ハンドボールは走る、跳ぶ、投げると全部の要素が揃い、しかも、全部高いレベルを要求されるスポーツです。こうした競技は少ないのではないでしょうか。コンタクトも許され、格闘技の要素も含まれます。人間には最適なスポーツではないかと思います。
僕自身、今も毎年6月の最終日曜日の開催が恒例となっている京大との定期戦は、大きな目標です。この試合に出ると決めると、身体を動かすことができるほどです。今年は2得点でしたが、少し前にはチーム13点中、8点取った時もありましたよ。
スタンドから観戦しても、プレーのダイナミックさ、華麗さはもちろん、お互いのチームがどう空気支配するか、監督がどう動くか、タイムのタイミングは、など見どころにあふれます。
―現在のハンドボール界、若いハンドボーラーへのメッセージをお願いします
この年齢になってもプレーしたいと思わせるほど魅力的で、観客として見てもこれほどおもしろいスポーツもないと思いますが、やはり国際的に強くないとテレビでは放映してもらえません。ヨーロッパの最上位国はともかく、少なくとも韓国とは勝ったり負けたりのレベルになってほしい。1997年、熊本世界選手権で日本男子がフランスを土俵際まで追い詰めておおいに注目されたように、強くなれば必ず人気が出るはずです。
いま、必死にボールを追いかけている若い世代のみなさんには、とにかく一生懸命やることが大切と言いたいです。一生懸命やれば、いろいろなことを学び、いい思い出ができます。そして、辞めてしばらくたってから、その経験がますます貴重なものになりますから。
―本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。