―本日はお忙しいところ、お時間をいただき、ありがとうございます。まずは、少年時代のようすをお聞かせください。
子どものころからドッジボールや野球など、球技が好きでした。商人だった父が経営していた福井商店も野球チームを持っていて、福井家は一家揃って阪神タイガースファン。私はタイガースの子どもの会にも加入していました。
このように、小学生時代は野球が大好きだったのですが、中学生になると守備ではピッチャーとキャッチャー以外はいつボールが来るかわからず、攻撃でも「今こそ!!」のチャンスに自分の打順ではない野球に対して「変なゲームだな…」という思いを抱き、少し退屈に感じるようになりました。
そして、高校(大阪府立大手前高校)で出会ったのが、11人制のハンドボールでした。
-高校のハンドボール部で活躍されたのでしょうか。
大手前高校にハンドボール部があったわけではないのですが、周囲の高校が盛んに活動していて、それに刺激を受けて高校の仲間と一緒に、「少しは我々もやろう」となり、時々自主的に活動していました。
高校でハンドボールを経験し、東大に進んでからは「運動部に入って、ちゃんとやろ う」と心に決め、「ラグビーにしようか、ハンドボールにしようか」と思っていたとこ ろ、後に三菱商事で活躍される2年先輩の河内鋭雄さん(元日本ハンドボール協会理事)に捕まり、半ば拉致されるようにハンドボール部へ(笑)。
ハンドボールを本格的にやってみると、全身を偏りなく満遍なく使い、あらゆるスポーツの中でやっていてとても気持ちのいい競技だと改めて感じました。
-東大時代の活動をお聞かせください。
放課後から日暮れまで、活動場所は駒場(東京都目黒区)のグランドでした。グランドでの活動ですから、日々、身体はすり傷だらけで、ウエアは泥だらけ。構内の学生寮で、たらいと石鹸を使って洗濯するのも日課でした。
ハンドボールは格闘技的な要素もあるスポーツですからケガも多く、私も中学時代には骨折して松葉杖姿で登校した時期もありました。『ハンドボールは大変なんだ』というイメージも持たれがちでした。
本郷(東京都文京区)で授業がある時は、駒場へ移動しなければなりません。本郷と駒場の間は、クラブバスの往来もあったのですが、自分の授業に合わせて運転してくれるわけではありません。電車で移動し、千駄ヶ谷で途中下車して、英語のレッスンを受けたことなどもいい思い出です。
-11人制ハンドボールでのポジションはどこを務められたのでしょうか。
守るよりも攻め込むことが好きな性格。11人制のフォワードをやらせてほしいと願い出て、フォワードのインナーをやっていました。今の7人制で言えばバックプレーヤーですね。
フォワードは長いパスを走りながら正確に投げることが求められます。遠くにスナップを利かせて投げるので、ボールをあまりしっかり握ると遠くに投げられませんから、手に乗せるようにしてボールを投げていました。
フォワードですが、攻めるばかりでなく、走って戻ってのチェックもしていましたよ。短い足ですが、走るのは速いほう。中学、高校時代も陸上部ではありませんでしたが、よく走り、駅伝大会にも出場しましたから、走ることは苦になりませんでしたね。味方の守備の弱いところもよく知っていたので、そのカバーもしたものです。
シュートは右左、どちらの腕からも放っていました。といっても、先輩の河内さんのように、ゴールポストの上の隅を鋭く射貫くようなシュートではありません。ゴールを外れたシュートを打ちたくないという気持ちも強かったので、GKが先読みをして早くジャンプし、倒れ込んでいるうちに、その逆をバウンドして ゴールイン、というシュートが多かったです。ボテボテのシュートですね(笑)。
-専門の指導者から指導を受けることもあったのでしょうか。
専属的に教えてくれたのが、当時、東大の体育講師だった高嶋冽さん(日体大OB、日本ハンドボール協会理事長・日本男子代表チーム監督などを歴任)でした。
高嶋先生は、技術面はもちろん、人格者でみんなが慕う人でした。後に先生の娘さんの仲人を私が務めた、というご縁もありました。
高嶋先生のつながりで、荒川清美先生(日体大OB、日本ハンドボール協会理事長・日本オリンピック委員会常任委員などを歴任)からもいろいろと教えていただきました。荒川先生と高嶋先生の言うことが違う時は、「どちらの言うことを聞いたら?」と迷うこともありましたが(笑)。
荒川先生のご好意もあり、駒沢で日体大と合同合宿をさせてもらったこともあります。この合宿はきつかったですね。足を痛めているのに、平気な顔で走っている日体大の選手たちの姿にビックリしたことも思い出深いです。
合宿と言えば長野県松本市、浅間温泉の「千代の湯」を定宿に、年1、2回行っていました。宿から松本市内や美鈴湖までのランニングなど、よく走りましたね。
-当時の戦績はいかがでしたか。
当時、関東の大学は、早稲田、慶應、明治を中心としたリーグと日体大や芝浦工大を中心としたリーグの2つに分かれていました。東大は、日体大や芝浦工大と同じリーグでした。
日体大や芝浦工大にはとても勝てないので、それ以外のチームに勝つことが目標でしたね。京大との定期戦や七帝戦(東大、北大、東北大、名 大、京大、阪大、九大の旧帝国大学による定期戦で、ハンドボールはこれに神戸大を加えた8校で戦った)もターゲットの試合でした。
最初に京大との定期戦に勝ったのが、3年生の時。アウェイの戦いでしたが、松本での合宿などで強化して臨み、接戦を制することができました。
試合中は激しくぶつかり合い、一触即発となるほどヒートアップしましたが、試合後はそれを引きずることなく、気の置けない仲間に。
日本銀行総裁に就任した際、最初にお祝い会を催してくれたのも、京大ハンドボール部OBでした。
-そうしたハンドボールでの経験は、社会に出てどのような場面で役に立ちましたか。
ハンドボールに打ち込むことで、敵や味方の走り方や動きを把握し、咄嗟にどう走ったら、どうボールをつないだらいいかと、いちいち目で確かめなくても感覚的につかめるようになりました。
世の中もその延長線上にあります。国際会議などでも一言一句、確かめながらでなく、流れの中で動態的に次の判断が求められますが、そうした場面でもハンドボールでの経験が役立ちました。
流れの中で次の判断をしていく、といった能力は、ハンドボールが一番身につけやすいのではないでしょうか。仕事のいろいろな場面で、ハンドボールが活きた、ハンドボールをやってよかった、と強く感じています。
-最後に、ハンドボール界への提言やこれからのハンドボール界を担う若い世代に向けて、メッセージをお願いします。
11人制時代の人間にとって、現在の7人制はとてもスピーディーで、かつ、身長のハンデも大きく影響するのではと感じます。
また、グランドで泥にまみれて育った世代ですから、スポーツは基本的にさまざまな天候の下でという思いも強いので、たまにはアウトドアでプレーするチャンス、しくみがあれば、また新たな発想も出てくるのではないかと思います。
2013年に東京オリンピック開催が決定してからは、会長を務める界友会(政財界で構成するハンドボール経験者の懇親会)などで「まずリオ(2016年)でしっかりいい成績を」と言ってきましたが、リオには出場することができませんでした。
オリンピックは連綿と続いていきますから、東京オリンピックもその次の2024年、28年のオリンピックを考えて、戦って欲しいと思います。
これからの世代のみなさんには、何かのために、ではなく、思いっきりハンドボールを楽しんで欲しい。スポーツは楽しむものです。
試合では激しく相手とぶつかり合い、いい友だちをたくさん作ってほしいですね。
―本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。